
私は昭和18年1月17日、大阪城に程近い、東成区神路町で生まれる。大阪では、父の姉が経営する豆腐屋の手伝いを夫婦でしていたと母より聞いていた。
昭和一九年、戦争は日を増すごとに激しくなり、軍事工場などを爆撃していたB29長距離爆撃機は、そのうち都市もねらうようになり、大阪は危ないと、本籍地に近い福岡県宝珠山村へ疎開。戦後は炭鉱夫だった父親の仕事で、鉱山を転々とした。学校を出ると住み込みで精肉店で働いていた。昭和38年、東京オリンピックを一年後に控え、日本列島がオリンピック景気に沸いている頃、精肉店をやめて、逃げるように横浜へ。
昭和39年、日本通運に入った。首都高一号線や、東海道新幹線こだま号が開通した頃だ。
昭和42年、母親に東京見物をさせようと横浜へ連れてきた。大阪で途中下車し出生地へ。「もう、家はなかとよね」と母は話していたが、赤レンガの二階建ての長屋は残っていた。
家を見つめてたたずむ母は突然「あんた、あそこの二階で生まれたとばい。豆腐屋は朝が早ようて、下で仕事ばしとると、あんたはよく泣きよったばい。母ちゃんは、豆腐作るのが仕事たい」と母は言い、「赤ん坊は泣くのが仕事たい」と俺が言うと、「そうたい、そうたい」と母が言い、二人で大笑いした。
ペンキ屋大好き
3年後に母が旅立ち、昭和44年に日通を退職した。少しの間休んでいると、アパートの隣りに住む塗装業の人から「運転を手伝ってくれないか」と頼まれたのがきっかけで、ペンキ塗りになった。
現場でペンキを塗る人の仕事を見ていて、こんな仕事もあるのか面白そうだな、と思った。親方からハケを借りて、その日のうちに木造アパートの二階に通ずる鉄の階段を塗った。初めての仕事だから忘れない。38年たった今でも、この仕事に出会えてよかったと思う。
現場は主に公共の住宅。県営住宅や県公社住宅、賃貸アパートの住人が引っ越した後のリフォームをおこなう。天井や壁の塗り替えで、バブル崩壊で一度は単価が下がったが、現在では安定している。
民商に入会したのは昭和50年。私は国際結婚で、当時、大使館に婚姻届を出すために税務署へ納税証明書を取りに行った。しかし、「あなたは税金を払っていないのでここには記録がありません」と職員に言われた。申告をしていなかったのだ。
困って行きつけの焼肉屋に相談すると「税金のことなら民商しかないね」と紹介された。入会後しばらくは確定申告時期だけ事務所に顔を出すだけだったが、平成8年、総会に出席したのがきっかけで組織活動を手伝うようになり、民商の仲間のあたたかさを知った。
金融問題や税務調査、商売で困っている仲間のために集まって応援しあうつながりが何よりだ。
どういう出会いがあるかで、人生は変わっていく―これまでの人生を振り返り思うことである。
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