神奈川県商工団体連合会

連載 花水川物語

ふるさと散歩       平塚民商  府川 清さん   
四歳のとき
思い出は おれを闇の中に連れて行く
燈火管制下 電球の傘に黒布が巻かれ
敵機襲来か 空襲警報のサイレンが鳴り響く
おれは 真っ黒な半地下式の防空壕にいる

あっ! ピカッ 強い光が頭上を走った
直撃だ もうだめだ
壕の屋根が吹っ飛んでしまった
外はもっとひどく やられているだろう
みんな大丈夫か どこにいるのか
不安と恐怖が増すばかりだった
そのうち 寝ってしまった

目が覚めると 防空壕はそのままだった
ああよかった 小さな胸をなでおろした
わが家に焼夷弾が十数発直撃 トタン屋根を貫通
大人たちは外に放り出し 家は焼けなかった
天上と壁に 穴と油脂の吹いた跡が残っていた
家族はみんな元気で 朝飯を囲んだ
おれを驚かせた光は 何だったのか
照明弾の光が隙間から入ったのか
近くに落ちた焼夷弾だったのか
音の記憶はない いまも謎のままだ

わが家の近く 土手下の道路脇
六角形の鉄製焼夷弾の破片が露見している
博物館の若い学芸員が自転車で飛んできた
資料と照合 六〇年前の米軍の焼夷弾
ここは畑が広がり 町から市民が避難してきた
米軍機の焼夷弾の直撃 機銃掃射で何人も死んだ

一九四五年七月一六日深夜 平塚大空襲
市街は七割消失 二百三十数名の市民が死んだ
おれたちは 戦争のあらゆる残骸の中
青い空の下で 喜々として遊んだ

【解説】
北西に四、五分歩く 私が六五年前生まれた所
わが家と私の原点 
まだまだ題材がたくさんあり書き尽くしていない
生家は取り壊し いまは貸事務所 生計の一つ
昭和の初めまで 近くに京方見付の櫓があった
復元してあるが 昔のままではない
櫓に使われていた石が いまわが家の玄関にある
イメージがずいぶん違う
神商連しんぶん2008年3月(第207号)より
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豹留の碑
―ある戦死者からの手紙―

私は 百三十年前(明治九年)徴兵されました
翌年 西南戦争で田原坂近くの激戦地におもむき
二十一歳で あえなく戦死した者です
明治になってから 平塚出身の戦死者です

古里に「豹留」の碑が建てられているそうですね
 豹は死んで皮を留め
 人は死して名を留む
 人は死後に立派な
 名前を残したいもの
という意味の漢文から採られた と聞いています

私の名前など どうでもよいのです
豹留の碑は注目されないのが 一番いいのです
今の日本に生まれていれば
徴兵されず
命令で人を殺すことも殺されることもないのです
戦争でいのちを捧げなければならない国など
本当の祖国と言えるでしょうか
今でも銃の引き金を引いたことを悔やんでいます
死んだ若者の顔を思い出すたびに 詫びています
取り返せない深い罪を 私は背負っているんです

下界では欲の深い連中が
また戦争ができるよう
憲法九条を ゴミ箱に捨てようと企んでいますね
天上にこの事が伝わり議論が巻き起こっています
もういい加減にしろ とみんな怒っています
戦争が国が命ずる大量殺人
人間のすることではありません
これ以上 戦死者を出すのはやめて欲しい
下界がうるさくて安心して寝ていられないのです 
九条をいじるのは 止めるべきです
私たちの結論は「輝け!九条」です
影響力を どう使ったらいいのか
みんなで策を練っているところです

碑がある薬師院清水寺のまわりは いま どうなっていますか
清水が流れ 田んぼが広がる静かなところでした
トンボやセミをとって遊んだ古里です
いまでも 懐かしさが込み上げてきます

【解説】
公園から西へ百b 〈豹留の碑〉へ向かいます
真言宗薬師清水寺の門前
桜の木の下に 碑は解説版を従え 静かに立っている
反戦詩「豹留の碑」が生まれたところです
堂で自由民権運動などの人材を育てた耕余塾
その主人・漢学の小笠原東陽先生の端正な字
明治初頭 何を狙い 碑は建てられたのか
当時の有力者の思惑が 
今となれば透けて見える
神商連しんぶん2008年2月(第206号)より
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砂丘平野
平塚の町は 山坂のない平らな砂地
親父がよく言った
今はビルで見えないが 花水川から
新宿・八幡神社の杜がよく見えた と

縄文海進時代は大きな入り江
相模川と金目川が作った平野
丘や貝塚の遺跡を結ぶと昔の海岸線
南北に走れば
ゆるやかな坂に何度もあたる
砂丘が幾重にも発達していた証拠

砂地に降った雨は 泉をつくり
池や小川になり 低地の西へ進む
花水川の支流に幾筋にも流れていく
砂地は地下水を蓄え
日々の暮らしの水源
井戸は埋められるまで
つるべから手押しポンプ
モーターと変わったが豊かな自然の恵みに溢れていた

砂丘のくぼ地にあった阿弥陀寺
境内の南側に大きな池があった
泉がこんこんと湧き出し
葦や蓮がいっぱい茂っていた
水豊かな清流・小桜川の水源
五十数年前 夏休みに
兄たちは褌姿で泳いでいた三代前の住職のころ市に寄贈された
池のある公園になる
花火大会が数回あり賑わう
都市化で水源は枯れ 埋められる
今は老若男女が楽しむ
四十瀬川公園になっている
【解説】
南に向かい旧東海道を越え浄土宗阿弥陀寺に着く
府川の姓 発祥を示す五百数十年前の墓石を見よう
すぐ近くにある府川家の墓碑に注目
我家の由来を刻んだ碑文に一見の価値がある
寺の南側には以前 泉が湧き 葦や蓮が茂り
泳げる池があった いま四十瀬川公園になっている
泉が池をつくり 流れとなり 田を潤していた
だが 流域から泉が 一つ残らず消えてしまった
神商連しんぶん2008年1月(第205号)より
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平らな塚と白い塚
―平塚の地名由来

平塚本宿は 古来より
東 西 北へ 人々の往来あり

平安時代の八五七年
関東 平家の始祖・高見王の娘
平政子は東国下向の際
当地で病に倒れ
里人の解放の効なく 逝く
柩を手厚く葬る
塚の上 平らな故
いや あとで
塚が平らになったというから
「平塚」という

また一説あり
昔から あっちこっちに古墳があり
上が平らな塚型の 白い砂丘もあり
里人は以前から 住み着き
ここを「しらつか・ひらつか」
と呼んでいた

当時の里人の血を引くのか
親父は「しらつか しらつか」と発声
白い塚・平らな塚を偲ばせる
どちらか 決めかねる興味深い話
私の思いは 親父の味方をしたい
地勢と歴史が
渾然とした二つの地名由来

日蓮宗・要法寺の西隣
平政子が 葬られた塚がある
「平塚の塚緑地」に整備され
解説坂と二つの記念碑が立っている

【解説】
私が生まれ育ち今も暮らす平塚
JR平塚駅に来てください
平塚の塚緑地へ向かいましょう
平塚の地名が生まれたところと言われています
そしてもう一つの説もあるのです
隣は日蓮が宿泊したところに建てられた要法寺です
神商連しんぶん2007年12月(第204号)より
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