代々クリーニング業を
私は1940年8月、鶴見区潮田で生まれました。疎開していた日吉の親戚宅で横浜大空襲の真っ赤に燃
える彼方を見上げながら、降り落ちる焼夷弾をよけ、「防空壕」に逃げ込んだことを鮮明に思いだします。自宅はクリーニング店で、灰燼に帰したそうです。
終戦後、父は再出発で米国を相手に商売すべく、旧海軍厚木基地前に土地を借り、兵隊相手のランドリーを始めました。この商売は的に当たり、朝鮮動乱時には15名の従業員を抱え、競争相手が増えても盛況でした。そんな営業も、基地内に大規模なランドリーが設置されると基地相手の商売は成り立たず、再出発を余儀なくされました。
当時、長後に進出した「いすず自動車藤沢工場」に的を絞り、法人化し、知人の紹介で大和民商の前身「湘南商工会」に入会したそうです。家族も世田谷から鶴間へ自宅を移しました。
しかし、私は別居ですから家業を理解していません。私は測量会社に就職し、当時計画が始まった東海道新幹線の仕事が入り、張り切って仕事をしていました。
突然の転機が
そんな折、父親と折り合いの良くなかった兄が店を辞めると同時期に父が病に倒れ、職人数名が引き抜かれピンチに。借金もあり、店を潰す訳にもいかず、やむなく私が店を継ぐことになりました。同時に夜学のクリーニング学院に入学。商売を覚えながらクリーニングの技術取得にも精を出し、一年で卒業。ついでに国家試験に挑戦して、クリーニング師資格を取得しました。
二六歳で結婚し、四人の子どもに恵まれました。幾多の不況、変遷にも耐え、お客様に恵まれ40年余りが過ぎました。ホームランドリーに徹し、お客様と仕事に感謝しつつ、同時に民商活動においても、地区の支部長を多年経験し、仲間とこの不条理とたたかっております。
神商連しんぶん2011年6月(第246号)より