斉藤芳夫さんが小机町に豆腐屋のお店を構えたのが昭和48年のこと。小机商店街は横浜線小机駅を中心に横浜上麻生線の街道沿いに開けた商店街で、当時は近郷の農家などで賑わっていました。出店当初は「豆腐屋は小銭商売。子どもたちに売上金を計算させると、もう飽きたといわれるほどだった」といいます。今の小机商店街は新横浜の開発、市営地下鉄の開通により、取り残されてしまい、三方スーパーに囲まれ、横浜スタジアム建設にともなう小机駅改装で、すっかり人の流れが変わり、当時の面影はまったくありません。
斉藤さんがなんとか生き残っているのは地の人との結びつきと手造り豆腐の味にあるといい、昼下がりの小机町の路地になつかしいラッパの音が響きます。斉藤さんは開店当初から真鋳製のラッパを鳴らして、毎日引き売りを続けています。お鍋を持って買いにきてくれる馴染みのお客さんと話がはずみます。「お客さんがこんなオカラ料理がおいしかった」と伝達役にもなります。農家のお客さんとの会話から、地野菜を店頭に置くことになり、これがけっこう人気で「今日はどんな野菜が入っている」と店を覗きに来る人も増えています。「味の決め手はやはり原料。新潟産の大粒大豆を使っている」といい、「冬場はもっと固目がいい」など、お客さんとの対話も商品改善の重要なヒントとも話しています。
斉藤さんは新潟から集団就職で上京。大森の豆腐店で働き、20才で独立。自分の持ち家店舗を求め、横浜に来ました。共同で豆腐製造会社を設立したものの失敗し、通りがかりに見つけた「貸し店舗」の看板が現在のお店です。「地」の強い土地柄で飛び込み同然で商売を始め、店舗を買い取り、3人の子どもを育て上げることができたのは、地域との結びつきを大切にしたからと、ラッパを吹いての毎日の行商と25年に及ぶ消防団の活動を語ります。
民商では「なんの役に立てず」と言いながら、商工新聞の配布と会費の集金は「いいよ。俺んと持ってきて」とこころよく続けています。
神商連しんぶん2010年3月(第231号)より
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