会長として伊勢原民商の中心で運動にたずさわる蟹沢さん。岩手県花巻市に7人兄弟の6番目として生まれました。当時、岩手県では多くのうちがそうであったように、貧農の中で育ちました。小作に貸していた土地も戦後の農地解放で失っていました。
中学卒業で仕事につく兄弟が多い中で、蟹沢さんはなんとか高校に進学したいと思い、勉強に励みます。その姿をみて両親は貧しくとも息子の願いにこたえます。60人の同級生のなかから4人が進んだ花巻北高校。普通科を昭和30年に卒業し上京します。
就職先はハムを作る水産会社。電気室や冷蔵庫の保守点検部門に配属されます。専門的な知識が求められ、東京電機大学の夜学に学びます。
時代はまさに安保反対運動の高揚。労働組合運動が働く仲間の組織を大きくした当時です。蟹沢さんも北海道大学卒の二人の先輩といっしょに労働組合をつくり、執行部に入って労働運動にも力を注ぎました。
デモ行進する若者たちが機動隊と衝突する日々。血気盛んな若さが炸裂した時代でした。
働きながら大学を卒業し、東京電力に勤務。およそ10年間、栃木、福島、長野などの水力発電所をまわり、変電所補修の仕事に携わります。
29才をむかえる頃、田舎のお母さんの声かけがあり、川崎大師診療所で医療事務をしていたテル子さんと結婚。東京から疎開で岩手に暮らすことになり同郷だったテル子さんには「愼吾さんはきかん坊だったねえ」と言われてしまう幼馴染のような二人でした。
32才で神奈川支店に配属になりここで約10年。技術課長となり、経験の積み上げのなかで仕事は充実していましたが、大きな組織の中で人間関係のあり方にも疑問を持ちます。資格と経験を生かし、43才で独立に踏み切ります。
会社を立ち上げ、ほぼ同時に伊勢原民商に入会。翌年、民商の共済会が発足し、その役員を要請され引き受けました。「共済の由来はドイツのギルド」などと、その理念を学び、新鮮な気持ちで運動に向き合いました。
開業の昭和51年当時は第二次オイルショックに見舞われた時代。景気が悪く、家族が食べられるようになるまでに2年ほどかかりました。勤めをしていた頃の人のつながりから紹介される仕事も多く、それらは30年以上たった今でもほとんど続いています。
誇りある仕事は民商とともに
「自分の仕事はなかなかいい。安全を守る仕事に責任感を背負っている。電気は一ヶ所がダメになるとつながっている約150世帯ぐらいが停電になる。大きな会社、野球場、体育館、病院など、公共的な仕事の責任も大きい」と、仕事に対する誇りが伝わってきます。
免許を必須とするこの仕事は実際に現場に立つのも自分。従業員はいません。大きな仕事は仲間同士が連絡を取り合って助け合います。「この間の全商連全国会長会議のときは、仲間と一緒に対応する仕事でどうしても行けなかったんだ」と蟹沢さん。開業以来、仕事と民商活動はゆるぎなく両立してきました、「こうやって両方頑張れるのは、民商の仲間や事務局の理解あってこそ」と語ります。
「いま、73才。80歳まではやれる!って思うんだよ。そして一区切りついたら女房と旅行でもするか。いつのことだかね」とまだまだ現役の声がはつらつと。
神商連しんぶん2009年12月(第228号)より
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